次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを一つ選びなさい。
あるとき理由を聞いてみた。彼女はこう答えた。読んだ直後に出てくる感想は、たいてい自分がすでに持っている物差しに当てた結果でしかない。だから一晩置く。置いてもなお残っているものだけが、その原稿が自分に対して起こした変化なのだ、と。
これを聞いて、私は自分の読み方がずいぶん乱暴だったことに気がついた。私は本を読むと、読み終わる前から①判定を始めてしまう。面白い、退屈だ、この著者は分かっていない——そう決めてしまえば、以後に出てくる文章はすべて、その判定を裏づける材料か、無視すべき例外かのどちらかになる。判定はいつも早く、そして早いぶんだけ、自分の手持ちの尺度から一歩も出ていない。
分からないものを分からないまま抱えておくのは、かなり不快な作業である。人はその不快さに耐えられず、とりあえずの名前を与えて片づけようとする。「要するに○○論だ」「よくある△△型だ」。名前がつくと、不思議なことに、それ以上考えなくてよくなる。②名前は理解の入り口であると同時に、思考を打ち切る合図でもあるのだ。
近ごろは、この打ち切りがますます速くなっているように思う。読んだそばから短い言葉で評価を書き、それが他人に読まれる。評価を先に出す習慣がつくと、判定はいよいよ早くなる。早く言えた人が、よく読んだ人だと見なされることさえある。
しかし、あの編集者が一晩置いていたのは、慎重さのためではなかったのだと思う。彼女は判定を遅らせていたのではなく、判定される前の状態を、もう少しだけ長く持ちこたえていたのだ。まだ名前のついていないものが、自分の中で形を変えていく時間。それを確保できる人だけが、他人の書いたものによって本当に何かを変えられる。
速く読めることと、深く読めることは別のことだ。前者は技術で伸ばせるが、後者に必要なのは技術ではなく、不快さに耐える体力なのだろう。