唱える(となえる)=nêu ra, xướng lên(異議を唱える=nêu ý kiến phản đối)。
近年、「わかりやすさ」が何よりも重んじられるようになった。長い文章は敬遠され、要点だけを短くまとめた解説が好まれる。【41】、わかりやすさそのものが悪いわけではない。伝わらなければ、どんなに正しい主張も届かないからだ。
ただし、わかりやすい説明には、必ず何かが省かれている。専門家が言葉を慎重に選ぶのは、例外や条件を無視できないからである。その慎重さを削り落とせば、説明は確かに短くなる。【42】、そこで失われるのは、結論に至るまでの道筋だ。
読み手の側にも問題はある。一度読んで理解できないと、書き手の力不足だと【43】。しかし、世の中には、時間をかけなければ理解【44】事柄がある。分からない状態に耐える力もまた、学ぶ力の一部だろう。
だから私は、非常にわかりやすい説明に出会ったときこそ、いったん立ち止まることにしている。何が省かれたのかを考える。その一手間が、【45】。
社員各位
十月一日より、在庫管理システムを新システムに切り替えます。九月三十日の午後六時から翌朝九時までは、新旧いずれのシステムでも、在庫データの参照・入力ができません。この間に入出庫が発生した場合は、所定の用紙に記録し、切替後にまとめて入力してください。なお、旧システムで作成した帳票は十二月末まで参照できますが、新システムには自動では移りません。必要なものは各自で保存してください。
地図アプリを使うようになってから、私は道を覚えなくなった。以前は、目印になる建物や坂の傾きを覚えながら歩いた。今は、画面の矢印に従うだけでよい。目的地には確実に着くが、帰り道を人に説明することはできない。道に迷わない代わりに、私は町を自分で読み取る機会を手放したのだろう。便利な道具を使うなとは言わない。ただ、何を手放しているのかは、知っておきたい。
株式会社北川製作所 佐藤様
いつも大変お世話になっております。先日ご注文をいただきました部品につきまして、製造元の都合により、全数の納品が予定より一週間ほど遅れる見込みとなりました。つきまして、納期を十月十五日に変更させていただきたく、お願い申し上げます。なお、うち五十個につきましては、当初の予定どおり十月八日にお届けできます。分割での納品をご希望の場合は、今週中にご連絡をいただけますでしょうか。
失敗を記録に残す組織は強いとよく言われる。しかし、記録さえすればよいというものではない。誰がしたのかを詳しく書けば、記録は責任を追及する道具になり、やがて誰も正直には書かなくなる。必要なのは、何が起きたかを、人の名を消して残すことだ。失敗は個人の能力ではなく、仕組みの弱さを映す。仕組みを直すための記録でなければ、同じ失敗は形を変えて繰り返される。
旅先で写真を撮るようになってから、私は風景をよく覚えていない気がする。撮った瞬間は確かにそこにいたはずなのに、あとで思い出そうとすると、画像そのものしか浮かんでこない。
ある研究によれば、展示物を撮影した人は、撮影しなかった人よりも、その細部を覚えていなかったという。記録という手段を持つと、脳は「覚えなくてよい」と判断するらしい。便利な道具は、いつのまにか私たちの仕事の一部を引き受けている。
もっとも、私は写真をやめようとは思わない。問題は撮ること自体ではなく、①撮ることで済ませてしまうことだ。同じ研究では、どこをどう写すかを自分で選んだ場合には、記憶はむしろ良くなったとも報告されている。選ぶという行為が、対象をよく見ることを迫るからだろう。
記録と記憶は、似ているようで働きが違う。記録は外に置かれ、時間がたっても変わらない。記憶は内側にあり、思い出すたびに少しずつ形を変える。変わってしまうことを欠点と考える人もいるが、私はそうは思わない。②その変化こそが、経験が自分の一部になっていく過程ではないか。
だから私は、撮り終えたあとに、カメラを下ろしてもう一度その場所を見るようにしている。数秒でいい。その数秒があるかないかで、あとに残るものは確かに違う。
新しい技術が話題になるたびに、「安全なのか」と問われる。専門家は「現在の知見では、健康への影響は確認されていない」と答える。ところが、この答えはしばしば不誠実だと受け取られる。①両者の話がすれ違うからである。
問う側が知りたいのは、自分や家族に害があるかどうかである。一方、答える側が示せるのは、集団を対象とした統計と、その時点での限界だけだ。専門家が「絶対に安全だ」と言わないのは、何かを隠しているからではなく、科学がそういう言い方をしない仕組みになっているからだ。
とはいえ、専門家の側にも反省すべき点はある。「確率は極めて低い」という表現は、正確ではあっても、聞く人の不安には届かない。数字を並べる前に、何が分かっていて、何がまだ分からないのかを、順序立てて示す必要がある。②分からないと認めることは、信頼を失う行為ではない。むしろ、分からない部分を隠さない態度こそが、長い目で見れば信頼を支える。
危険が全くないことを求める社会は、どんな説明にも満足しないだろう。しかし、それを人々の無理解として片づけてしまえば、対話はそこで終わる。必要なのは、不確かさを共有するための言葉を、双方が少しずつ身につけていくことだろう。
工場で長年働いてきた技術者が定年を迎える。その人が持っていた技能をどう残すか。近年は、作業を細かく分解し、数値と手順書に置き換える方法が主流だ。実際、それで再現できる仕事は少なくない。
だが、現場を見て回ると、①数値にならない部分が必ず残る。材料の状態は日によって違い、機械の癖も一台ずつ異なる。熟練者は、音や手触りから「今日は少し違う」と気づき、設定を小さく変える。手順書には「異常があれば調整する」としか書けない。何を異常と見るかが、まさに技能だからである。
興味深いのは、優れた熟練者ほど自分のしていることを言葉にできない、とは限らないということだ。聞き方を変えれば、彼らは驚くほど具体的に語る。「なぜあのとき手を止めたのか」と過去の一場面について尋ねれば、判断の根拠が出てくる。抽象的に「コツは何か」と聞くから、答えが出てこないのである。
技能の継承とは、手順を写し取ることではなく、判断の場面を共有することだ。②そう考えれば、自動化は敵ではない。単純な作業を機械に任せ、人が判断に向き合う時間を増やせるなら、継承はむしろ進むだろう。問題は、何を残すかを決めないまま、記録だけを増やすことである。
「この言葉は翻訳できない」という言い方をよく耳にする。ある言語にしかない語を挙げ、そこにその文化の独自性が表れていると語る議論である。日本語の「もったいない」などが、その例として繰り返し取り上げられてきた。しかし、①この言い方には注意が必要だと私は考えている。
翻訳できないとされる語も、説明することはできる。「もったいない」とは、まだ使える価値が残っているのに捨ててしまうことを惜しむ気持ちだ、と述べれば、意味の大部分は相手に届く。つまり、一語を一語で置き換えられないというだけであって、意味そのものが外に閉じているわけではない。翻訳の不可能性とされてきたものの多くは、実のところ、効率よく置き換えられないという問題にすぎない。
では、本当に難しいのは何か。私は、語の意味ではなく、その語が使われる場面の広がりだと思う。「すみません」は、英語なら文脈に応じて三つにも四つにも訳し分けられる。だが、日本語の話者が一日に何度この語を口にするか、どんな相手にどこまで使えば失礼にならないか──そうした使用の頻度と分布は、訳語の一覧には現れない。②辞書が伝えられないのは、この部分である。
実際、翻訳者が最も時間をかけるのは、辞書を引く作業ではない。原文のある一文が、その言語の中でどれほどありふれた言い方で、どれほど改まった調子なのかを測り、訳文の側で同じ位置にある表現を探す作業である。原文では目立たない一文を、訳文で目立つ言い方にしてしまえば、意味は合っていても働きは変わる。逆に、珍しい言い回しをありふれた表現に均してしまえば、書き手がそこに込めた違和感は消えてしまう。
こう考えると、「翻訳できない」という言葉は、しばしばそれ自体が働きを持つことが分かる。ある語を訳せないものと呼んだ瞬間、私たちはそれを説明する努力をやめ、文化の壁という便利な言葉で片づけてしまうからだ。訳せないのではない。訳すには手間がかかるのである。その手間を引き受けようとする態度こそが、異なる言語の間に細い橋を架けていくのだと思う。
大学の講義を誰でも視聴できる形で公開する動きが広がっている。これに対し、大学の価値が下がるという声があるが、私はそうは思わない。公開されるのは講義の内容であって、大学が与えているものはそれだけではないからだ。
利点のほうがはるかに大きい。地方に住む高校生や、働きながら学び直したい人にとって、水準の高い講義に触れられる機会は貴重である。学費を払える者だけが知識に近づけるという状態は、本来おかしい。知識は公共のものだ。
教える側にも効果がある。公開を前提にすれば、話の筋を整理せざるをえない。同僚や外部の目に見られるという緊張が、講義の質を押し上げる。閉じた教室の中でだけ通用していた説明は、外にさらされれば自然に姿を消していくだろう。
講義を公開すること自体に反対する理由はない。ただ、公開された映像を見ることと、授業を受けることを同じものとみなす風潮には疑問を感じる。
教室で起きているのは、情報の伝達だけではない。学生が的外れな質問をし、教員がその場で答えを組み立て直す。その往復を通して、学生は自分の理解のどこが崩れているのかを知る。映像は完成した説明を届けてくれるが、崩れては立て直される過程までは映さない。
また、公開を意識すれば、教員はどうしても失敗を避けるようになる。答えの出ていない問いをその場で考えてみせるような、危うくて面白い時間は減っていく。整った講義が増えることは、必ずしも学びが深まることを意味しない。公開は手段であって、目的ではない。
研究の場で「それは何の役に立つのか」と問われる機会が増えた。限られた予算をどう配分するかを考えれば、当然の問いではある。しかし、この問いには、答える側を必ず不利な立場に置く仕組みが隠れている。
役に立つかどうかを今の時点で示せと言われれば、示せるのは、すでに使い道の見えているものだけである。使い道が見えているということは、その分野の地図がおおむね描き終わっているということでもある。地図の外に出ようとする研究ほど、①この問いには答えにくい。答えにくさは価値の低さではなく、むしろ未知の度合いを表しているのだ。
こうした場面でよく引かれるのが、長く「純粋に無用」とされてきた整数論が、のちに暗号技術の土台になったという例である。ただし、この種の話を持ち出すことには危うさもある。いつか役に立つのだから今は許してほしい、という言い方は、結局のところ「役に立つこと」を唯一の物差しとして認めてしまうからだ。②弁護のつもりが、相手の土俵を広げている。
私が言いたいのは、物差しを一本にするなという単純なことである。ある研究は技術を生み、ある研究は世界の見え方を変え、ある研究は次の世代が立てる問いを準備する。三つ目の働きは特に見えにくい。ある問いが立てられたおかげで、十年後に別の誰かが違う道を選ぶ。その因果は記録には残らないが、学問はそうやって動いてきた。
したがって必要なのは、問いを立てる側と支える側の双方が、評価の言葉を複数持つことだ。「何の役に立つのか」と尋ねること自体を禁じる必要はない。ただ、その問いに答えられないことを、そのまま無価値の証拠として扱わない。その節度がなければ、短期間で成果を示せる研究ばかりが残り、地図の外を歩こうとする者はいなくなる。そのとき失われるのは個々の研究ではなく、未知に向かう方法そのものである。
| 室・席 | 対象 | 利用時間 | 申し込み | 料金 | きまり |
|---|---|---|---|---|---|
| A 一般開架席 (20席) | どなたでも | 9:00〜19:00 | 予約不要 (先着順) | 無料 | 会話・通話はできません。パソコンの使用もご遠慮ください。 |
| B グループ学習室 (3室・各6名) | 中学生以上 3名以上のグループ | 10:00〜18:00 | 3日前までに 窓口またはウェブ | 1室1時間 300円 | 1回3時間まで。室内での会話ができます。 |
| C 研究個室 (4室・各1名) | 市内に住む方・市内に勤める方で、利用者カードをお持ちの方 | 9:00〜20:00 | 前日までに ウェブ | 1時間 200円 | 1日2時間まで。パソコンの使用ができます。 |
| D オンライン会議ブース (2室・各1名) | 高校生以上の方 | 10:00〜20:00 | 当日、2階 カウンターで | 30分 150円 | 1回1時間まで。オンライン会議・通話専用です。通話をしないご利用はお断りしています。 |